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魅力あふれる我が街、光が丘
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  人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」
  大江戸線など光が丘から都心へのアクセス便利帳
  保育園・学校・学童クラブはこんなに充実
  光が丘パークタウンサークル活動いろいろ
魅力の分譲団地
  ゆりの木通り北
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  大通り南
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  いちょう通り東第二
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光が丘パークタウン花と緑の公園都市
  光が丘にはこんなにたくさんの公園があります
  公共機関も充実しています
◆人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」第36弾
「つまみぐい人生で培った実学を光が丘で実践」 山本美子様
 
すまいる快適生活セミナーでの「ケアマネージャーとの上手な付き合い方セミナー」には多くの人の関心がありました。
すまいる快適生活セミナーでの「ケアマネージャーとの上手な付き合い方セミナー」には多くの人の関心がありました。
  私は和歌山の出身です。東京に移り住んで20年になりますが、主人の転勤が多く、それ以前は東京―大阪―四国間を14回ほど引越ししました。6年前、すまいる情報光が丘を通して今のマンションを購入し、もう転勤もなく、今やっと光が丘に落ち着きました。ちょうどその頃、娘が朝霞にいて出産間近だったので、大阪に戻る予定を取りやめ、光が丘のマンション購入を決心したのです。それよりも以前になりますが、その娘が光が丘に住んでいたことがあり、広い公園もあり、歩道は広く、何よりも便利な街ということで、光が丘は娘のおすすめの街だったのです。
 
 
快適生活セミナーでの「ツボ講座」は大変好評で、3回ものリクエストが
快適生活セミナーでの「ツボ講座」は大変好評で、3回ものリクエストが
  現在、前職だった鍼灸師・ケアマネージャーの経験を生かし、皆様のお役に立てるようにがんばっております。すまいるさんでの快適生活セミナーで「ケアマネージャーとの上手な付き合い方講座」や「ツボ講座」を開いたときも、たくさんの方にいらしていただきました。皆様の関心の高いことを知り、うれしく思いました。鍼灸師になったのも、ケアマネージャーの資格を取ったのも、「手に職を」という強い思いが昔からありました。6才の時に父が亡くなり、戦争未亡人をたくさん見てきたので、女も働かなきゃいけないんだと。資格+実力で、実際に使える実学は大切だという信念を持っております。
 
 
日本語学校時代の教え子の卒業記念に
日本語学校時代の教え子の卒業記念に
  もともと私は、結婚前に社会科の高校教師でした。結婚・出産後も続けていましたが、主人の四国転勤を機に退職し、高松で水道方式の算数教室を始めました。37才で 鍼灸学校に通い始めました。当時、「変わったことをやるのね」とみんなに言われました。しかし、若いときから座骨神経痛持ちだった私が、お灸で治ったという経験があったので、鍼灸には大変興味があったのです。40才で資格を取得し、鍼灸師として大阪で開業しました。鍼灸師ではわからない分野、例えば筋肉・関節・頭蓋骨のずれなど、このようなことにも興味を持ち、スペインのマジョルカで武道を教えていた先輩からキネシオテーピングの基本を学びました。当時、キネシオテーピングはまだ珍しかったのですが、その威力は素晴らしく、これを使うことに自信を持ちました。
  転勤による引越が多かったものですから、また東京に越してきたときは日本語能力試験というものに挑戦し合格。東京でも鍼灸をやりながら、10年ほど日本語教師も務めました。主にアジア諸国の学生に日本語を教え、日本にいながら外国を味わえて楽しかったです。
 日本語教師の後は、ケアマネージャーの資格を取りました。ヘルパー経験が5年なくても、鍼灸師として人の肌に触れていたので、受験資格があったのです。ケアマネージャーとして4年半働きました。
 
 
日本語学校教師時代の教え子達と
日本語学校教師時代の教え子達と
  このように私にはいろいろな経歴・職があります。転勤族だったためか、場所が変わるたびに新たな資格も取得し、その土地での生活に変化をつけていたのかもしれません。もちろん、学ぶことや教えることが好きだったわけですから、日々充実していました。今、やっと光が丘に落ち着きました。大変満足しています。季節が変わるたびに木々・花々の変化を見て楽しいです。心も落ち着きますね。
 今後は、訪問鍼灸師として、そして、数学教室・日本語教師時代に培った知識や方法で、日本語の文法についての考え方を広めていきたいです。計算をするときの算数の勉強方法が、言葉にも使えるのではないか、と思っています。水道方式といって、X軸とY軸を使って、難しいと言われている日本語の尊敬・謙譲語も、グラフを使えば簡単に覚えられるという方式です。外国人の方達にも好評でした。これからこの方式を興味のある方にお教えしたいと願っております。また、ケアマネージャーの仕事の続きとして、認知症の介護者の会にも参加し始めています。
 

◆人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」第35弾
リタイア後の「今が青春!」を謳歌 鈴木喜一様
 
荒川区素盞神社での相撲甚句
 ウクレレにスチールギター、ラテン音楽になんと相撲甚句まで。あと社交ダンスのクラスにも通って、定年後の生活を楽しんでいます。まさに今が青春そのものですね。こういった習い事を通して沢山の人たちと出会えるし、在職していたときにできなかったことが今できるんです。仕事の忙しさと違う忙しさで毎日充実しています。退職してから8年ほど経ちますが、その間に興味を持ったものはできるだけ試してみました。
 
 
ハワイアンバンドでフラを踊る
 それでもね、もともと私は学生時代に軟式テニスの選手だったんです。小学生の頃、家の隣に高校のテニスコートがあってね、遊びながら教えてもらって始めてみたんだけど、その後は軟式テニス部に所属して本格的にやったんです。高校ではインターハイに出場して、大学の頃一般の部で出場した水郷杯というので優勝もしたんです。だから音楽だけでなく運動も好きですね。大学卒業後は生命保険会社に入社して、退職するまで38年間勤務しました。会社には軟式テニス部があって、そこに所属していました。
 
 
四季の香弐番街のゴルフクラブ面々と
 私が48才の時に妻が亡くなったんです。それで自分への励みにと会社の人がゴルフを勧めてくれて、そこから私のゴルフ人生が始まりました。生き甲斐がなかったわけではないけど、いつまでも悲しんでいてはいけないと熱中するものをつくりましたね。それから退職するまでの週末はゴルフ三昧でした。ゴルフコースに予約を入れ、コースに出る前は打ちっ放しで練習といった生活を送っていました。
 
 
自宅マンションの前で
娘さんと一緒に
 光が丘に越してきたのは昭和62年のこと。通勤中の電車の中で光が丘パークタウンの募集を新聞で見たんです。なんとその日が〆切当日で、でも私はどうしても手が放せない仕事があったもので、会社の知人に無理にお願いして現地まで行ってもらいました。そしたら補欠で当選したんです。そこから繰り上げ当選となって、なんとも強運でした。今ではマンション内の自治会のゴルフ同好会で、管理組合のシンボルマークを付けたおそろいの帽子もつくって、みんなで楽しんでいます。娘は結婚して所帯を持っていますけど、私の身の回りの世話をしに頻繁に光が丘に来てくれるんです。在職中は私の転勤で離れて暮らしたこともあったけど、娘と仲良くしていられるのもうれしいです。

 そうそう、光が丘区民館でのウクレレ演奏会で知り合った光が丘第5小の校長先生に、ウクレレの特別授業を依頼されたことがあって、一昨年4年生にウクレレを教えたことがあるんです。一日だけの特別授業でしたけど、小学生の楽しんでいる姿や真剣な姿を見て、将来の音楽家がこの中から出ればいいなと思いました。そして何か一つでも趣味や打ち込めるものを持ってもらいたいな、と。
 
 
カラオケ大会で
熱唱する鈴木さん
 私は子供の頃から何事につけとことん極めていくタイプなんです。日本地図を編纂した伊能忠敬の六世孫にあたる血筋がそうさせているのですかね。習い事はいい先生のもとで習いたいんです。スチールギターは世界で一番難しい楽器ともいわれているけど、プロの先生は納得のいく良いアドバイスをくれるし、がんばってついていっています。ラテン音楽にしても最初は原語で歌うのなんて大変だと思ったけど、一曲マスターすると次も次もどんどん歌いたくなるんです。以前通っていたカラオケスナックで「カラオケ大会に出てみない」と声をかけられ、それを機にいろいろなカラオケ大会に出場しました。優勝したこともあります。でもそのためにだんだん自分の趣味の時間がなくなっていくので、今は習い事での発表会を優先的に出るようにしています。それに、会社時代の仲間達とも付き合いがあるので、ゴルフやハイキングも楽しんでいます。このまま輝き続けていたいですね。新たに今年、自分自身への課題を作りました。民謡を習ったこともなく、全くの素人でどこまで出来るかわかりませんが、「江差追分」に挑戦します!
 

◆人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」第34弾
「近隣の方達は家族同然の仲間、ずっとこのまま光が丘に住み続けたい」 西村扶美代様
 
天空でお会いした仏様
天空でお会いした仏様
光が丘在住20年の西村さん。持ち前の明るさと多彩の趣味で、幅広い年齢層の方々と交友関係が豊富です。なかでも書道の才能にあふれ、今年2月、練馬区立美術館で5日間に渡って開催された書の個展では150点を出品し、300名もの来場があったほど。「書の決まりきったスタイルにこだわらず、与えられたインスピレーションのままに字を書く」これが西村流だそうです。
 
 
先日行われた「西村扶美代展」案内
先日行われた「西村扶美代展」案内
 西村さんが書道を始めたのは小学校1年の時で、書き初め大会は常に賞を取り、富山県大会出場の常連になっていました。すでに中学では屏風に書いたものが出展され、大学では書道家で有名な宇野雪村氏に師事し、書の道に励みました。大学卒業後は中国専門の旅行会社に勤務し、なんと添乗員経験をお持ちです。その後は北京大学に1年半留学し、現在中国書道界ナンバー2と言われる欧陽中石氏に師事し、書の道を極めていきました。
帰国後は科学技術庁所属クラブで記者を10年程勤め、それでも書道をやめることはありませんでした。その間に結婚して2人の娘さんにも恵まれました。施設が整った光が丘は子供を育てるには最高の環境で、0才から子供を保育園に預け、平和台駅まで自転車に乗り、新橋まで通勤を続けていました。そのお子様方は光が丘生まれの光が丘育ち。今はもう大学生で、西村さんの姿を見ていたのでしょうか、どちらも芸術の道へ進んでいます。
 
 
2人の娘さんと個展で一緒に
2人の娘さんと個展で一緒に
 現在は、旦那様の仕事を手伝う傍ら、書道以外にも料理・太極拳・気功・篆刻(はんこ彫り)・京劇などの趣味のお仲間達との交流に大忙しです。あまりに中国語に堪能で、中国の方から日本語の使い方を指摘されることもしばしばだとか。
「毎年秋に行われる光が丘体育館でのスポーツフェスティバルで、子供の保育園時代や学校の友人や先生方、マンションの住人、太極拳の仲間、光が丘やその近隣に住む友人がたくさんいて、みんなに挨拶するのがとっても楽しい」とおっしゃる西村さん。お住いのマンション内みんながお友達だとか!近所の方にはお得意の料理を持って行ってあげることも。「書の個展には0才から85才まで、様々な職業や趣味の方、もちろん近所のお友達がたくさん見に来て下さいました。とてもありがたいことです。」東京のマンションでは近隣の方と声を掛け合うことが少なくなった今、西村さんは光が丘のマンション全体に交流をもたらしてくれています。
 
 
左:唐詩選、李白「黄鶴楼にて」右:「バラが歌い踊る」
左:唐詩選、李白「黄鶴楼にて」
右:「バラが歌い踊る」
こちらの作品をすまいる情報に寄贈して下さいましたので飾っております。
 「先日、自治会で餅つき大会がありました。自治会の役員の方は勿論、富山出身の私と新潟出身の方で、杵と臼を使って本場の餅つきを披露したのですよ。美味しいお餅といろんな味付けにわいわい盛り上がりました」と笑顔でその時の話をしてくれました。「近隣のみなさんは家族同然の仲間、ずっとこのまま光が丘に住み続けたい!!」光が丘の芸術家は、こう語ってくれました。
 

◆人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」第33弾
光が丘の自然と共に 押し花りゅうの会主宰 奥文子様
 
いちょう通り東集会所での押し花教室の様子
いちょう通り東集会所での押し花教室の様子
 私と光が丘の出会いは20年近く前のことです。まだ子供が小さかった頃、友人と光が丘のデパートや名店街に遊びに来たことがありました。当時はまだまだ建設途中で車が無いと動けないようでした。その頃は住み替えなど思ってもおらず、遠くから眺める存在でした。その後新聞で募集を目にしましたが、高嶺の花でとても手が出る状態ではありませんでした。そのうちに忘れてしまい、10年ほど前突然マンション購入を考え、再び惹かれるように光が丘にやってきました。きっと何か縁があったのだと思います。我が家の在る「いちょう通り東」は清潔感があり植木に囲まれ住みやすいところです。また「いちょう通り東」に限らず光が丘全体に自然が多いので、もっと早くにこの場に住んでいれば、と思っています。
 
 
押し花で作るアクセサリーのコレクション
押し花で作るアクセサリーのコレクション
 趣味も増え多くの友人にも恵まれ、今は押し花と草木を使ったアクセサリーを教えながら、私も生徒のみなさんに刺激を受け楽しんでいます。
 
 
練馬区手工芸作家展での作品と奥先生
練馬区手工芸作家展での作品と奥先生
 押し花を始めたきっかけは、体験会で押し花が自然な色のまま作品にできることにショックを受け、そこからのめり込んでしまったのです。何しろ押し花は色が茶色に変色するのが当然と思っていたのですから。それにしても押し花を始めると欲が出て、もっともっと綺麗な押し方がないか、簡素化できないかなど考え、試行錯誤ですがその時間も楽しく、寝るのを忘れてしまいそうなぐらいです。アクセサリーは身の回りにある草木を使ってオリジナルのデザインと工程で楽しんでいます。また一部は販売して皆さんに楽しんでいただいています。押し花から始まりアクセサリーへと広がり、また更に次から次に広がっていきそうな予感です。
 
 
奥先生の傑作「パティオの中の蘭達」。2005年東京ドームでの世界蘭展に出展された作品
奥先生の傑作
「パティオの中の蘭達」。
2005年東京ドームでの
世界蘭展に出展された作品
 光が丘の春の桜や花々、夏の百日紅や木々の緑、秋のもみじや楓などの紅葉、冬の椿や山茶花。公園をぐるっと回れば作品作りのヒントはいっぱい! これからもみんなで楽しめる作品作りと作品展に向け頑張っていくつもりです。その時は見にいらしてください。
 

◆人気シリーズ「在住者100人が語る光が丘の魅力と住み心地」第32弾
スペイン留学から学んだ光が丘パークタウンの魅力 すまいるホームページ担当 由美
 
マドリッド旧市街地の街並
マドリッド旧市街地の街並
 2004年の1月から半年間、スペインのマドリッドでスペイン語を学び、築年が推定150年と言われている5階建アパート(日本での6階建)で1人で暮らしました。そのアパートはマドリッドの旧市街地の中心にあり、どこへ行くにも徒歩圏という絶好のロケーションでしたが、光が丘に20年も住んでいた私には「有り得ない!」ことの連発だったのです。 

 スペインに限らず、ヨーロッパの旧市街地の建築物には一定の法規制があるため、建替えや外面の大規模修繕がほとんどできません。これは歴史的景観を維持するための典型的な法規制です。そのため、旧市街地と言われる部分には築年100年以上という建築物は当たり前のように存在します(地震が起こらないのも理由の一つです)。マドリッドに到着後、そのアパートに到着した瞬間、まるで1920年代のモノクロ映画の世界に飛び込んでしまったかのような感覚に陥りました。
 
 
アパートのキッチンにある熱湯タンク。下は洗濯機
アパートのキッチンにある熱湯タンク。
下は洗濯機
 まず、エレベーターです。外部と内部にドアがあり、どちらも手動なので、日本のように待っていればドアが開くわけではないのです。しかも、ドアをしっかり閉めなければボタンを押しても動きません。他の階でひとつでもしっかり閉まっていないドアがあれば、エレベーターそのものが作動しないのです。そして一階正面からエレベーターに入っても、出るときは左から出る、というエレベーターなのです。

 どうしてこんな変な仕組みなのか聞いてみると、もともとエレベーターが存在しない時代からのアパートなので、螺旋階段の真中の空いたスペースにエレベーターを無理やり取り付けたため、1階の出入り口と上階とで位置が変わってしまったということだそうです。各階停止にはなっていますが、最初にボタンを押した階にしか止まりません。つまり、3人がそれぞれの階へ行くのに、お互い「何回ですか?」と声を掛け合い、下階の人が先にボタンを押し、その人が降りてから改めて上階のボタンを押して自分のフロアまで行くのです。
 
 
学校の友だちと好物のベルドゥーラ・ア・ラ・プランチャを囲んで
学校の友だちと好物の
ベルドゥーラ・ア・ラ・プランチャを囲んで
 また、お湯には毎日のように悩まされました。各住居のキッチンの上に熱湯タンクがあり、そのタンクのお湯を使い切ると次にお湯が出るのに1時間かかるのです。部屋にはバスタブがなかったのでシャワーだけの生活でしたが、少量の水圧でお湯を止めながら8分以内でシャワーを使うことを学びました。そうでないと突然お湯が無くなって水になってしまうからです。なので、食器を洗ってからシャワーというわけにはいかず、寒い冬だったのでお湯の使い方は常に計画的でした。

 そして、部屋の壁の薄さにも驚きました。壊れた壁から素材を見てみましたが、何なのかよくわかりませんでした。隣のTVの音や電話の声など全部聞こえていました。私が住んでいた4階のフロアの6室は、通っていた学校が所有していたもので、隣人達は欧米からの学校の仲間でした。壁の薄さゆえに、物音が聞こえれば部屋に居るということで、ドアをノックし合ってバル(スペイン風居酒屋)へ通ったものでした。アパート正面の行きつけのバルでは店員とも仲良くなり、シャンパンまでもサービスしてもらっていました。スペイン料理と言えばパエリヤが有名ですが、私のお気に入りは「ベルドゥーラ・ア・ラ・プランチャ」(野菜の鉄板焼き)で、大粒の塩との絶妙な味が忘れられません。
 
 
私の住む街、光が丘
私の住む街、光が丘
 そんな楽しい異文化生活も終え、光が丘に帰国した時は、現代的で機能的なマンションの快適さを改めて実感しました。お湯の心配をしない生活、自動のエレベーター、頑丈な構造、当たり前に感じて見えなかった一面が有り難く感じました。

  光が丘パークタウンは誕生から20年以上経ちましが、築20年という住宅もその年数を感じません。大学院では集合住宅を専攻していたので、近代的で利便性に富んだこの街は、他に類を見ない特別な街だと私は思っています。
 


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